2025/10/09 14:30

秋の風が吹くと思い出すのは、
奈良の鹿公園だ。

正倉院展には最低でも20回は行ったはずだ。
家族で必ず行く場所、学ぶ場所。
僕の美の基準は、正倉院にある。

小学生の頃の記憶が特に色濃い。
子供の目には一体その宝物がどう素晴らしいのかその背景はわからなかったし、ある意味で素直な目とも言える。
どれが良かったか、必ず父に問われた。
その都度、僕と兄は自分の中の答えを言った。

漆胡瓶、七宝の鏡、囲碁の台。
長さ、佇まい、気配。
雲を掴むように感覚を掴むこと。

20回鹿公園を歩き、時々わらび餅を食べ、鹿せんべいの値上がりを見てきた。コイにご飯をあげること、かんぽの宿で大工の源さんをやることだけが楽しみだったあの旅行の中に、僕の原体験が溶けている。

父にはことあるごとに「本物を見なさい」と言われてきた。

今思うと、本物を見るということは、表面には決して出てこない空気を感じられるようになるということだったのかもしれない。

小説でも、映画でも、真似をしたことがなかった。
そもそも真似をする選択肢が意識にないのだ。親はよく描けた絵よりも、個性が爆発した絵を好んだからかもしれない。

その結果、僕は成長がとても遅かった。まずは真似ましょう、そこから個性を探しましょうという選択肢をなくして生きてきたら、進みがすっごく遅くなってしまった。

その代わり苦しみを感じることもなかった。
ただただ自分の才能の無さに悔しくなるだけだ。そんなところでうまく生きるようになりたくない。ちゃんと作って、ちゃんと評価されたいと思っていた。

バッグができて評価されるまで、本当に本当に苦しかった。隣で才能が開花した友達たちを眺めては、自分に足りないものはなんなのか考えた。羨ましかった。バッグ作家になってその羨ましさはようやく消えた。時間がずいぶんかかった。

生きている限り、人が作ったものを見て生きていく。
家も道具も地形も、食べ物だって作られている。
その中でオリジナルを見出さなければならない。
そこにもがいているとき、傍らには黙って売れてる作家の真似をする、誘惑がいつもどこにでも転がっている。

少し真似て、評価され、正当化する。
いつの間にか自分のもののような気にもなる。
でもまやかしが本物になることは絶対にない。

その作品が、模倣かオリジナルか、偽物か本物か。

その核になるのは「オリジン」なのだと思う。

その人が見聞き、体験したことの中で、どうにも通りすごせないもの。一次情報の積み重ねで出来上がった、その人でなければいけないもの。

そのオリジンは絶対に侵食されないものであり、そこから生まれたものがたとえ見た目が見ていたとしても、別物であると胸を張って言えると思う。

これからの世界、これを作らざるをえないと言えるものでなければ、人間が、ものを作り、売るということは成り立たなくなると思う。そうであってほしい。

AIが本物と見紛う作品を生み出すいま、
人間が人間の模倣をしてどうするのさと思う。

僕は僕のオリジンで作る。
そして、そういう人たちだけを応援する。
これからは、そうでない人やものたちを認めない姿勢を、勇気を出して取っていきたい。
編集済み · 1時間前