SOSAKUBAGの肝は色だと思う。
色というのはとてもあいまいで感覚的なものだけれど、
SOSAKUBAGらしさを構成している大切な部分だ。
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僕はしばしば、バッグに情景を粗く描く感じと伝えているけれど、別に隣に写真を置いて、解像度を荒くしたピクセルを置くようなプロセスで作っているわけではない。
自分の中にある答えにアクセスするような感覚で、
自分が染めた色の束から心の基準で素材を選び
その素材が伸びやかになるように
ルールで固まらないように意識しながら
トリミングして一本一本と編み合わせていく。
その結果がこんな形になっている。
染めは心がそのまま反映される感じがあって、
その行為は、料理にも似ている。
レシピを見て作るのではなく、
音や気配を感じながら塩を摘む量を調整して
火力もなんとなく、こうかなと思いながら作るあの感じ。
最初の写真は、僕が小学2年生の頃に描いたけやきの絵だ。
もちろんけやきは全く赤くはなかったのだけれど、
僕の心は赤く、にぎやかに燃えていたのだろうと思う。
小学生のころから、色合わせも、伝えたいこともほとんど変わらない。
セミしかり、けやきしかり、
僕は見ているようで見えておらず、
目もすっごい悪かった。
だからなのか、心のなかをのぞいていたのだと思う。
木を描いているうちに、
宙に飛んでいくような感覚があった。
描いているときはとても楽しくて、
描き終わったら大人には褒められ、同級生には笑われた。
ちょっと絵を描くのが恥ずかしいのは、
多分あのときのトラウマがあるんだと思う。
僕の心を表現するのに使う道具は
水彩よりもクレヨンになり、
クレヨンよりも万年筆になり、
万年筆よりもカメラが良かったし、
カメラよりもやっぱり花火で、
最終的には、木の皮に染めるということだった。
そこに行き着くまでに30年あまりかかってしまった。
最初から見えていたのに、
辿り着くには、長い道のりだ。
心を編んでゆく。
不思議と、美術館に行くと
同じ物を描いていると思う絵に出会うことがある。
その人のバックグラウンドや技量によって
アウトプットの質はまるで違うのだけれど
奈良美智さんやピカソの絵を見たりするときに
あれ、これってまさかと思う感覚。
そんな時は、こんな偉大な絵たちに
僕の感覚が1ミリでもシンクロすることもあるという
畏怖と嬉しさに震えることがある。
先日の出展の時には、
どうしてもこのコースターが
うちの別荘から見える景色にしか見えないのと
楽しそうに再来店してくださった方がいた。
そんな時は、はちゃめちゃに使い込まれたバッグを見るときと同じくらい、嬉しい気持ちになる。
2025 8.30